昭和40年08月29日 夜の御理解
御祈念前に熊本から、山田さんが松村さんと2人、単車で参って見えられた。本当に山田さんのお導きで参ってこられたのですけれども、山田さん、お父さんの病気の為にお願いに参ってみえた。一遍、どうでも助かってもらわなければならんというので参ってみたんですけれども。非常に悪化致しましてですね、
それが、もう少しお歳たものですから、亡けられるというかですね、非常に頭がちょっと狂ったようになっておる。なら、とにかく、自分がもう、死なんならんとにお棺は用意しとらんのかと、もう、はよはよ、お棺に入らんならんと言ってその、ばたぐるわれるといったような、その奇妙な病気なのです。ね。という気が触れておられるというわけではないのですけれどもね。
ほんで、もう付き添いの看護婦さんも、家から行っておる看護婦も疲れきっておりますという事でした。ですから、私このことを今日から、どうぞあの、おかげを頂かれるようにまた、付き添い婦さんがあんまり親切でないということを聞いて、あの、言うておられますから、もう適当なよい付き添いの方のお繰り合わせを頂くようにというて、お願いさせて頂いた。
その事についてはもう、病院代やら、なんやらかんやらで、お金がまとまって要るのだけれども、お金にはお繰り合わせが頂けれない。もうはようから、屋敷内でしょうかね、大きな杉があるそうです。田舎のことですから。その杉を売りたいけれど、まあ、売れないわけですね。というような、お願いをしてございましたが、今日お参りをして見えられてから、本当にお願いをさせて頂いてから。
まあ、早速おかげを頂いてから、第一この、今まで売れなかった杉の買い手があるち。おかげで想いもかけない七万円という金額で売れた。おかげで、支払いも済むことが出来た。おかげで、その売れなかった上にもその、お百姓さんで、牛でも売ろうかという位になっちゃったけれども、おかげで牛も売らんで済んだと。
お父さんのほうもおかげを頂いて、おとなしゅうなられて。同時にあの、付き添い婦さんも、大変親切な夜も、夜中も起きていろいろ介抱して下さるような、おかげを頂いてから、あの、おかげを頂きましたとこういう。
やはり、ある教会に参っておられたんですけども。ね。いわゆる、願っても願っても、おかげにならなかったとこういう。だからその、山田さんが、言われるんです。そうですね、私もここにお参りをしてくるようになって、本当に神様のおかげを頂くということの実感的に、この方は、非常にお導きの名人と言われるくらいに、あの、上熊本教会のご信者さんがほとんど私のお導きだと言われるくらいに、まあ、お導きの名人ですね。いわゆる信心がそれこそ、手厚う出来ておられるんです。
けれども、本当に日夜神様にご守護を受けており、しかも生き生きという事の実感は椛目にお引き寄せ頂くようになって分かりましたと。教祖の神様の御教えの中にも「心にかける守りは穢れない」とね。と言う意味のあの御理解がございますですね。その心に守りをかけておれば心の守りは穢れるという事はないとこう言う様な、そういう事の実感というものが本当にこの感じられるようになりましたと言うておられます。
お互い信心をさせて頂いて、日夜、様々な難儀なこと、様々な問題、一時が万時お取次を頂いてお願いをさせて頂くのでございますから、ね、それはもう、私共は、気が付かない内に、そうした生き生きとした働きというものは頂いておるのである。でも私はそうですね、やはりあのお取次を頂いたから、早速神様の働きが頂けれるということに限っていない場合もある。例えていうならば、まあ長年信心をしておるけれども、いうなら、動きのない電車に乗っておって。
電車に乗っておれば、いつかは目的に行くであろうという位に漠然としておるような考え方の人がある。そういう意味合いで椛目の場合は、まあそれが、がたがた電車のような電車であっても、確かに生きて動いておる。だから、あの、生きた働きというものを、身に感じる事が出来るのであろうという事を話した事ですけれども、そういう意味合いで、皆さんがお願いをなさればです。
お願いをなされば、そういう働きというものが皆さんの周辺に現れてくる。それは、良しにつけ悪しにつけ、信心をさせて頂いておって、その変わったことが起きて来たら、おかげと心得てと仰るように、変わった事が必ず起こってくる。お取次を頂かせてもらうことによって。ね。そういう働きを頂いて初めて、教祖のその、御教えであるところの、心に掛ける守りは汚れるという事はないのだと。
何時も、心に守りをかけておれよと。ね、例えば、普通のお守りかなんかであるならば、落としたら、もうそれで終わりだけれども、ね、自分の心に掛ける守りというものは落とす事がない。しかもそういう実感がです、そういうお守りが、そういうお守りを自分の心に掛けておるという実感、そういうご守護を受けておるという事。
お願いしておることに対して神様がお働き下さっておるという実感が、私、日々神恩報謝の生活、おかげを頂いて有難いなあという、生活が出来る事でもある。生きたお取次を頂くというけれども、やはりそうした意味において生きた働きというのがです、なからなければ、信心も本当の楽しみはないと私は思うのです。ね。皆さんは、そういう意味で生きたお取次ぎを、日々頂いておるわけであるから。
自分も心して思うてみると、あれも神様の特別のお働き、これも神様の特別のお働きの中にあるのだと、と実感させて頂けれるおかげを頂かなければ、信心、有り難い信心生活という事にはなってこない。それをここに一つ成程、心に掛ける守りは汚れるというものはないのだけどもです、落とす事もないのだけれどもです、ね、和賀心でいわばお守りを頂いておっても汚れてはいなくても、お守りが。ね、
自分の心で汚す事があるという事。ね。自分の心から、落としてしもうておるような、気持になる事、もう神様、いわゆる、なんていうでしょうかね、自分が神様の御教えに、例えば、ああ、反しておるような生活をさせて頂いておるとです、自分の心の中に守りを頂いておるのだけれども、その守りを掛けておらんような寂しい心になって来るのです。結局、わが心からなのです。ね。
心に掛けておる、お守りを何時も生き生きと、そういう守りを受けておる、そういう、天地のご守護を受けておるという実感がです、ね、頂けてくるところまで、お互いが信心を進めるというか、日夜御教えに取り組んで、金光様のお取次によって、天地の親神様のご守護をうけておると、神様のおかげを頂いて有難いと、という実感が強くなっていくような、信心と、おかげを受けなければならんと思いますね。 どうぞ。